【この場所に来るのは最後】「最後の足跡」を考える【もう一生来ない場所】

⑥哲学者ごっこ

今回は、
「最後の足跡」について書いていきます。

みなさんは、
「最後の足跡」について考えたことはありますか?

私の作った造語ですが、
「最後の足跡」とは、
「その場所に最後に踏み込む一歩」という意味です。

※すでに世界のどこかに存在する言葉かもしれません

「この場所に来るのは最後」
「もう一生来ない場所」
ということです。

私はたまにこの「最後の足跡」について考え、
ギュッと切ない気持ちになったり、
シャキッと引き締まる気持ちになったりしています。

少し哲学的な話になりますが、
この感情を整理してまとめていきます。

※なお、私は哲学のプロではありません。
また「誰が何を言った」などアカデミックな哲学への興味は全くなく、
「つまみ食いをしながら日常生活に生かそう」というスタンスです。
あくまで「哲学者ごっこ」であり、エンタメとして捉えてください。

〈この記事の対象者〉
・FIREやサイドFIREに興味がある人
・労働から解放されたい人
・今より自由に生きたい人

〈注意点〉
筆者の経験と考えを書いていきます。
共通点が多いほど参考になると思います。

〈筆者の特徴〉
30代前半、独身、超倹約家、元社畜、元薬剤師、ゆるいミニマリスト、賃貸暮らし(基本社宅で自己負担小)、負債ゼロ

本記事の構成は、下記の通りです。

「最後の足跡」とは何か

私たち人類は2足歩行で移動し、
毎日の生活で各地に「足跡」を残しています。

厚生労働省の「国民健康・栄養調査(令和元年)」の結果では、
日本人の1日あたりの平均歩数は成人男性が「6,793歩」、
成人女性が「5,832歩」とのことです。

これだけ数の「足跡」を、
それぞれの人生がそれぞれの足で残し続けています。

そして、
日々のその「足跡」の中には、
「最後の足跡」となるものも混じり込んでいます。

「最後の足跡」とは、
「その場所に最後に踏み込む一歩」という意味です。

「この場所に来るのは最後」
「もう一生来ない場所」
ということです。

まずはこの「最後の足跡」について、
分類分けをしながら解説していきます。

大きな分類として、
「意図するものか」「意図しないものか」という要素で分けてみます。

意図して「最後の足跡」となる事例

「最後の足跡」の中には、
意図して「最後の足跡」となるものもあります。

例えば、
卒業や退職などの
イベントが挙げられます。

学校の卒業においては「この教室における最後の足跡となる」という、
会社の退職においては「このオフィスにおける最後の足跡になる」という、
潜在的な意図が存在します。

学生や社員という身分により許された「足跡」であり、
その身分を無くした瞬間にその権利を失います。

当の本人が「意図(意識)しているかどうか」については議論の余地がありますが、
潜在的には意図(意識)していると考えるのが自然です。

この「最後の足跡」という潜在的な意図が、
卒業や退職の切なさを増幅させていると考えています。

また、
引っ越しなどのイベントも挙げられます。

こちらの方がだいぶイメージしやすいと思います。

当然ながら、
居住者という身分により許された「足跡」であり、
その身分を無くした瞬間にその権利を失います。

再び足跡をつけたくなっても、
不法侵入で逮捕されるのがオチです。

「もう2度とここに戻ることはない」という感覚が、
引っ越しの醍醐味とも言えると思います。

問題なのは、
たいていの場合は引っ越し作業に追われ、
「最後の足跡」を意識する暇もないということでしょうか。

さらに、
少し外れて「実家が取り壊された時」などの特殊な事例もあります。

※私にも経験があります

取り壊して建て直す場合は、
「空間的には一緒であるが物理的には違う」という、
「似て非なる場所」という特殊な状況が作り出されます。

しかし、
「取り壊し前の実家」に対する、

明確な「最後の足跡」というものは存在します。

私も29年過ごした実家が取り壊されることを経験しましたが、
この「最後の足跡」の切なさは異常でした。

ペタペタ、
ペタペタと、
自分の部屋や、
廊下や階段や、
トイレやお風呂場、
29年間の思い出が詰まったありとあらゆる場所に、

「最後の足跡」をつけてまわりました。

「猫の肉球」のような確かな足跡は残りませんが、
体重をかけて歩き、
木の軋む音とともに「最後の足跡」を残しました。

意図する「最後の足跡」は、
なかなか切ないものです。

意図せず「最後の足跡」となる事例

「最後の足跡」の中には、
意図せず「最後の足跡」となるものもあります。

こちらの方が圧倒的に多いと考えています。

まず、
旅行などで「いつかまたここに来たいなぁ」と思いながら、
それが果たせなかった事例などです。

結果論として、
これはこれで切ないですが、
このような「最後の足跡」には希望が残っていると思います。

また、
圧倒的に多いのは、
「知らぬ間に最後の足跡になっていた」という事例でしょう。

一時期行きつけだったお店に急に足を運ばなくなったり、
行きつけのお店が少し見ない間に閉店していたり、

急な転勤で準備もままならないまま異動したり、
多岐にわたる様々なケースがあると思います。

このような場合は「最後の足跡」を意図しないため、
そこに切なさはなく、
幸せなのかもしれません。

「最後の足跡」の捉え方

様々な「最後の足跡」について、
例を挙げて解説してきました。

この「最後の足跡」の捉え方について考えました。

先に悪い捉え方を挙げ、
次に良い捉え方を挙げます。

悪い捉え方:「これが最後の足跡になるかもしれない」という過剰な不安

個人的に、
「最後の足跡」の悪い捉え方は、
「これが最後の足跡になるかもしれない」という過剰な不安です。

これは私にも経験がある話です。

酷い鬱状態となって退職し、
日本一周旅をしていた時の話です。

ふと、
「もうここに来ることはないかもしれない」
「これが最後の足跡になるかもしれない」という思考に襲われ、
とても切なくなりました。

やはりメンタルが落ちているときは、
まともなことは考えられなくなります。

「もうここに来ることはないかもしれない」という切なさが、
感情を独占してしまうイメージです。

またここに来る可能性があるにもかかわらず、
2度とここに来ない可能性の方が圧倒的に高いと思い、

憂いてしまうのです。

これは過剰な不安と言わざるを得ず、
楽しさよりも切なさが上回り、
その場を楽しむこともできなくなります。

このような捉え方をしてしまう時は、
「最後の足跡」以外のことに意識を向けるべきです。

良い捉え方:「いつかまたここに来たいなぁ」という希望

逆に、
「最後の足跡」の良い捉え方は、
「いつかまたここに来たいなぁ」という希望です。

前述の通り、
これが果たせなかった場合、
結果論として切ない話となります。

しかし、
希望は残り続けます。

このようなマインドで「最後の足跡」を捉えると、
その場を楽しむ事ができると思います。

2度とここに来ない可能性の方が圧倒的に高いとしても、
「いつかまたここに来たいなぁ」と前向きに捉える事ができれば、
それは幸せです。

まとめ:「最後の足跡」のなりうる一歩一歩を大切にする

以上、
「最後の足跡」についてでした。

まとめです。

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「最後の足跡」とは何か
 ①意図して「最後の足跡」となる事例

 →「もう2度とここに戻ることはない」という感覚があるため、切ない
 ②意図せず「最後の足跡」となる事例

 →特に「最後の足跡」を意識しないため、一番幸せなのかもしれない

「最後の足跡」の捉え方
 ①悪い捉え方:「これが最後の足跡になるかもしれない」という過剰な不安

 →楽しさよりも切なさが上回り、その場を楽しむこともできなくなる
 ②良い捉え方:「いつかまたここに来たいなぁ」という希望
 →来ない可能性の方が圧倒的に高いとしても、思い込む事が大切

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今回は分かりやすい「足跡」という言葉を使いましたが、
実際に「足跡」として残るわけではありません。

頑丈な靴を履き、
強固なアスファストの上を歩く場合、
もちろん「足跡」も何も残りません。

かろうじて、
砂浜を歩いた時には「足跡」が残りますが、
それも風ですぐに消え去ってしまいます。

このような「足跡」の儚さも、
「最後の足跡」を考える時に切なくなる要因の1つかもしれません。

そして、
「最後の足跡」を想うことは、
適切に死を想うことと似ていると考えています。

メメント・モリのように、
「最後の足跡」のなりうる一歩一歩を大切にすることと捉えれば、
「今ここ」を強烈に生きる事につながります。

※メメント・モリについては、下記記事で詳しくまとめています

今回は「最後の足跡」について考えましたが、
他にも「最後の会話」「最後の手紙」「最後のメール」などもあると思います。

「最後の足跡」やその亜種について、
深く考えてみて欲しいです。

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