【名付けの重要性】死への恐怖・不安は哲学で解消する【哲学のすすめ】

⑥哲学者ごっこ

今回は、
「死への恐怖・不安を解消する方法」について書いていきます。

私は物心がついた頃から、
「死」が怖くて仕方ありませんでした。

そして、
「死」について考え、
哲学している時間も恐怖に震えていたため、
それは「哲学恐怖症」でもあったと思います。

なぜ死や哲学が恐怖だったのか?

改めて考えた結果、
最終的に「名付けの重要性」に行き着いたので、
解説していきたいと思います。

※なお、私は哲学のプロではありません。
また「誰が何を言った」などアカデミックな哲学には全く興味がなく、
「つまみ食いをしながら日常生活に生かそう」というスタンスです。
あくまで「哲学者ごっこ」であり、エンタメとして捉えてください。

〈この記事の対象者〉
・FIREやサイドFIREに興味がある人
・労働から解放されたい人
・今より自由に生きたい人

〈注意点〉
筆者の経験と考えを書いていきます。
共通点が多いほど参考になると思います。

〈筆者の特徴〉
30代前半、独身、超倹約家、元社畜、元薬剤師、ゆるいミニマリスト、賃貸暮らし(基本社宅で自己負担小)、負債ゼロ

本記事の構成は、下記の通りです。

幼稚園〜小学校時代の哲学

「幼稚園〜小学校時代の哲学」については、
下記記事でまとめています。

先に読んでいただけると幸いです。

簡単にまとめると、
下記の通りです。

幼稚園〜小学校時代の哲学
 ①一番古い記憶も「死」の連想

  →「実在しない」=「無」=「死」
 ②「死」の連想で眠れない夜
  →モノクロで無機質な「遺影たち」が一番の恐怖
 ③「生」と「死」の境界線が分からない
  →生きているか死んでいるかも分からないのではないか?
 ④植物状態になった祖父
  →「生」と「死」の境界線を直視しなければならない辛い生活
 ⑤自由意志はどこまであるか?
  →全てがプログラミングされている完璧な世界に抗う

心臓を素手で鷲掴みされているような、
心臓にぽっかり穴があくような、
強い恐怖の感覚に頻繁に襲われていました。

眠れない日も多かったので、
成長への悪影響もあったと思います。

しかし、
今では「死恐怖症」も「哲学恐怖症」も克服できているため、
幼少期にこのような哲学の時間を経験していて良かったと考えています。

本記事では、
その「恐怖の理由」を解明し、
「死への恐怖・不安を解消する方法」について詳しく解説していきます。

幼少期、死と哲学が恐怖だった理由

なぜ、
死と哲学がここまで恐怖だったのか?

30代ではじめて哲学書を読み漁って学んだ今、
改めて考えた結果、

2つの理由が挙がりました。

解説していきます。

「完璧な世界である」と信じていたから

前記事でも書いた通り、
私は祖父母と両親から洗脳教育を受けていました。

「(良いことも悪いことも)おてんとうさまが見ているよ!」
「(悪いことをすると)おまわりさんが来るよ!」

「良い子」に育てるためのこの言葉たちは、
私の頭の中に「完璧な世界」を構築していきます。

悪いことをすると必ず「おてんとうさま」に見つかり、
それを聞きつけた「おまわりさん」に酷く叱られる、
といった具合に。

それ故に、
「全ての現象に答えがある」と信じて疑いませんでした。

何に関しても、
「100%の答え」があると思い、
それを求めていました。

しかし、
この世界は思っていたものとは程遠い、

「不完全な世界」でした。

特に、
「死」については誰も教えてくれませんでした。

今この世界に生きる人間で、
「死」を経験した人間は存在しません。

よって、
「死」について本当に知っている人間は居ません。

「死後の世界」を覗き見することは出来ません。

「死」とは得体の知れないものです。

「死」は全てを「無」に帰す恐ろしいものである気がします。

「答えのないもの」を無限に思考することほど、
不安になることはありません。

そして、
それが「死」という、

「不可避」かつ「恐ろしいもの」であれば尚更です。

「不完全な世界」で答えのない世界において、
無謀にも「100%答え」を求めた幼少期の私は、
恐怖に震えていました。

「名付け」ができていなかったから

今はこうして言語化出来て理路整然とまとめることができていますが、
当時は知識も語彙力もありませんでした。

「得体の知れない不安」は「得体の知れない不安」のまま、
「得体の知れない恐怖」は「得体の知れない恐怖」のまま、
私の頭と心にうごめいていました。

このように「得体の知れないもの」がうごめいてしまったのは、
「名付け」ができていなかったからだと考えています。

感情や思考に名前がついていないと、
その感情や思考は行き先を失います。

まるで触覚を失った昆虫のように、
頭の中や心の中をうごめき続けます。

「不完全な世界」でありながらも、
「得体の知れないもの」に関しては、
科学者や哲学者のが必死で全容解明を試み続けた歴史があります。

その長い歴史の結晶として、
この世界のたいていの感情や思考にはすでに名前がついていることを、

少しずつ知っていきました。

まずは、
「得体の知れないもの」の名前を知ることが大切です。

また、
その名前に辿りつかない場合は、
自分で仮の名前をつけることが有効です。

私も感情や思考の「名付け」により、
見える世界が変わりました。

哲学を学び、名付けることの重要性

得体の知れない恐怖に対抗するためには、
哲学を学び、
その感情や思考に名前をつけることが重要であると考えています。

哲学を自分の頭の中や心の中だけに留めるのではなく、
外の世界に解き放ち、
誰かの頭の中や心の中に存在している(していた)「仲間」を見つけるようなイメージです。

そうすることで、
「相対化」ができるようになり、
「分類分け」することもできるようになり、

「格納」や「保存」も可能になります。

私は、
サイドFIREを達成して自由な時間を獲得した後、
哲学書を読み漁って哲学を学んでいます。

哲学書の中には、
私の頭の中の思考や心の中の感情とリンクする「言葉」が多々あり、

その「名前」を知る日々です。

まるで「人生の答え合わせ」のような感覚で、
アハ体験の繰り返しのようで、
脳が活性化しているのが分かります。

これまでの人生において、
これほどまで楽しい勉強はありませんでした。

「死恐怖症」の人は、
「死」を避けるのではなく、
あえて一度本気で「死」について考えてみて、
思考や感情に「名付け」してみることをお勧めします。

死への恐怖・不安は哲学で解消する

これより、
「幼少期、死と哲学が怖かった理由」について、
「名付け」をすることで解説していきます。

剥奪説

田舎の祖父母の家で「7つの遺影」を眺め、
いずれ訪れる死について深く考えていた時、
「死がなぜ悪いのか?」よく考えていました。

前記事でも記載しましたが、
7つの遺影の中で一人だけ40歳前後と見られる若い女の人がいました。

その若い女の人の運命を憂い、
「自分も若くして死ぬ可能性がある」ことに震え上がりました。

無意識に、
「若い死ほど悪である」と考えていたのです。

哲学において、
「剥奪説」という考え方が存在しました。

「死が悪いものであるのは、
死が我々から生の善き点を剥奪するからである」
という説です。

幼少期の私の感情を言語化していました。

「生の善き点」とは、
生きることで得られる全ての経験のことだと私は解釈しています。

死によって奪われるものが大きすぎるために、
死は悪く、
死は怖いのです。

早い死であればあるほど、
奪われるものが多くなるため、
「若い死ほど悪である」というのも間違いではありません。

水槽の中の脳

「死」について恐怖するが故に、
反対の「生」に活路を見出すことを試行した結果、

「これは夢なのか?」「現実なのか?」と頻繁に考えていました。

「全ては幻想なのでは?」
「この世に実在しているのは自分だけなのでは?」
と思考したことは数知れませんでした。

SF作品にある設定のように、
自分だけ仮想現実を見せられているようなイメージでした。

これに関しては、
「水槽の中の脳」という概念が存在しました。

確かに、
どこかのSF作品で見たことがあるような光景でした。

星新一のショートショートでも描写されていた記憶があります。

このような汎用的な概念も言語化し、
「水槽の中の脳」のような「ものすごくイメージしやすい形」に落とし込むことは非常に大切だと考えています。

言語化により、ものすごくイメージしやすくなる

テセウスの船(同一性の問題)

父方の祖父が不慮の事故により頭部を強打し、
植物状態(遷延性意識障害)になり、
そのお見舞いの時間が苦痛でした。

この「変わり果てた姿」は、
果たして「大好きなおじいちゃん」の同一なのか?と、
悶々と思考する日々でした。

これに関しても、
テセウスの船(同一性の問題)という概念・言葉が存在しました。

物理的におじいちゃんは存在するが、
精神的なおじいちゃんは「死」を迎えたと同様。

精神的な「死」を迎えたおじいちゃんには、
過去のおじいちゃんとの同一性が見られなかったのです。

「テセウスの船(同一性の問題)」については、
別記事でも詳しく記載しています。

「エポケー」「無知の知」

幼少期の私は、
「おてんとうさま」と「おまわりさん」が支配する、
「完璧な世界」に生を受けたと信じていました。

前述の通り、
何に関しても「100%の答え」があると思い、
それを求めていました。

しかし、
それは無謀な思考であり、
そのチャレンジをする毎に恐怖に震えていました。

それに対応する、
「エポケー」「無知の知」という言葉が存在しました。

「エポケー」とは、
「停止、中止、中断」の意で、
「何かについて判断を下すことをいったん停止する精神状態」を意味します。

「無断定」とも表すことができ、
「一旦保留」という中途半端な態度を許容する、
「不完全な世界」を生きる上で重要な思考法でした。

幼少期の私は、
常に「100%の答え」を求め、
「停止、中止、中断」という選択肢を知りませんでした。

世の中は、
0か100ではありません。

そして、
その「世の中のすべては不完全」「答えは知り得ない」という事実を知ることを、
「無知の知」と呼びます。

「分からないことは保留にする」というこの態度は、
無知による不安を消し、
心の平安をもたらすことを知りました。

「自由意志」「決定論」「因果性」

幼少期の私は、
おてんとうさま(つまり神様)が、
「完璧な世界」を作るために、

全ての人間の行動をコントロールできる能力を持っていてもおかしくないと考えていました。

本当は自由意志などなく、
「全てはプログラミングされているのでは?」

と考えていました。

しかし、
自由意志のない、

全てがプログラミングされている世界など、
まるで楽しくありません。

それに抗うために、
「突拍子もない行動」や「おてんとうさまへのフェイント」を仕掛けていました。

これにも、
「自由意志」や「決定論」「因果性」という言葉が存在しました。

「因果性」とは、
「原因」と「結果」を結びつける、
向きを持つ非対称的なものです。

「因果性」には偶然性と必然性の可能性が考えられ、
もし万が一「全ての因果に偶然性の要素が無(全てが必然)」であれば、
世界の全ての出来事が前もって決定されているという「決定論」が成り立ちます。

私がイメージしていた「全てがプログラミングされている世界」と同じ世界です。

つまり、
「決定論」は人間の「自由意志」を保護する上で最大の脅威となります。

言葉に結びつける前、
言語化する前は、
この「決定論」も「得体の知れない恐怖」の1つでした。

名付けにより「決定論」に至る過程がイメージできるようになり、
恐怖は激減しました。

懐疑論

幼少期の私の「死」に対する哲学は、
全般的に「疑い」の連続でした。

「死」を疑い、
「生」と「死」の境界線を疑い、
「実在世界」を疑い、
「祖父の同一性」を疑い、
「自由意志」を疑い、
「完璧な世界」も疑いました。

そんな一連の行動にも、
「懐疑論」という名前がありました。

少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなし、
全く疑い得ない「絶対に確実なもの」を探る態度のことです。

そして、
最終的にデカルトの有名な言葉、
「我思う、故に我あり」に行き着きます。

私は「我思う、故に我あり」という言葉を知った時、
懐疑的な自己体験が言語化されていることに感動しました。

考える葦

幼い頃の私は、
よく考える子供でした。

かなりのマセガキだったと思います。

鼻を垂らして「今ここ」しか考えていなさそうな他の子供たち(姉弟、従兄弟、友達)を見て、
羨ましく思う時期もありました。

哲学をしながら、
クヨクヨ悩んでいるような実感がありました。

しかし、
この思考は止められませんでした。

思考が止められないのであればと、
「徹底的に考えよう」と開き直りました。

まるで、
「考える葦」でした。

「考える葦(あし)」とは、
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。 しかしそれは考える葦である」として、
自然の中における人間のか弱さと、
思考する存在としての偉大さを言い表した言葉です。

か弱いなりに頑張って思考し、
答えのない答えを探し、
「おてんとうさまへのフェイント」を仕掛けたりして苦悩しました。

今思い返せは、
無駄とも捉えられるこの過程は、
財産であったと考えています。

思考する存在として、
偉大だったと思います。

今では「死恐怖症」も「哲学恐怖症」も克服できているため、
幼少期にこのような哲学の時間を経験していて良かったと、
心から思っています。

まとめ:30代になった今、「てつがくこわい」

以上、
「哲学が恐怖でしかなかった頃の話」についてでした。

まとめです。

ーーーーーーーーーー

幼稚園〜小学校時代の哲学
 →一人で「死」について哲学していた

幼少期、死と哲学が恐怖だった理由
 「完璧な世界である」と信じていたから

  →「答えのないもの」「得体の知れないもの」を思考する恐怖
 「名付け」ができていなかったから

  →「得体の知れないもの」が頭と心にうごめく

哲学を学び、名付けることの重要性
 →「相対化」、「分類分け」、「格納」や「保存」が可能になる

死への恐怖・不安は哲学で解消する
 ①剥奪説

  →死が怖い(悪い)理由は、生の善き点を剥奪するから
 ②水槽の中の脳
  →「ものすごくイメージしやすい形」に落とし込むことは非常に大切
 ③テセウスの船(同一性の問題)
  →命は「物理的」「精神的」に同一である必要がある
 ④「エポケー」「無知の知」

  →「分からないことは保留にする」という態度により心の平安が訪れる
 ⑤「自由意志」「決定論」「因果性」
  →「全てがプログラミングされている世界」を客観的に見る事ができる
 ⑥懐疑論
  →懐疑的な自己体験を言語化した「我思う、故に我あり」
 ⑦考える葦
  →か弱いなりに頑張って思考したことは財産である

ーーーーーーーーーー

私は幼少期に自然と哲学をしており、
30代になってから独学で哲学を学びました。

まるで「人生の答え合わせ」のような感覚で、
アハ体験の繰り返しのようで、
脳が活性化しているのが分かります。

とても良い時間を過ごしていると思います。

自由な時間がなければ成し得なかったため、
「サイドFIREして良かった」
と思うことの1つでもあります。

幼い時の私にとって、
死や哲学は恐怖でしかありませんでした。

そして、
その恐怖の日々から約20年の時が経ちました。

30代になった今、
「てつがくこわい」です。

これは、
「まんじゅうこわい」と同じ意味です。

30代になってからの独学においても、
前日に学んだ哲学の夢を見てうなされたり、
あまりにも難解で理解に苦しんだり、
吐き気を催すこともあります。

しかし、
それでも「てつがくこわい」です。

あまりやり込みすぎると他の大切な時間を失ってしまうので、
気を付けなければなりません。

「死恐怖症」「哲学恐怖症」の人ほど、
一度哲学を学び、

思考や感情に「名付け」することをお勧めします。

私は「誰が何を言った」などアカデミックな哲学には全く興味がないので、
これからも「つまみ食いをしながら日常生活に生かそう」というスタンスで学んでいこうと思います。

今後も、
哲学についての記事をたくさん書いていく予定です。

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