【死恐怖症】幼少期、死と哲学が怖かった理由を探る【哲学恐怖症】

⑥哲学者ごっこ

今回は、
「死と哲学が恐怖でしかなかった頃の話」について書いていきます。

私は幼少期、
重度の「死恐怖症」でした。

それは、
「哲学恐怖症」でもあったと思います。

一人で悩み、
思考を重ね、
自分なりに哲学をしていました。

サイドFIREを達成して自由な時間を獲得した今、
哲学書を読み漁って哲学を学んでいますが、
当時の感情とリンクする「言葉」が多々あり、

とても楽しいです。

なぜ死や哲学が恐怖だったのか?

改めて考えるために、
当時の思考と心境を詳細に振り返っていこうと思います。

※なお、私は哲学のプロではありません。
また「誰が何を言った」などアカデミックな哲学には全く興味がなく、
「つまみ食いをしながら日常生活に生かそう」というスタンスです。
あくまで「哲学者ごっこ」であり、エンタメとして捉えてください。

〈この記事の対象者〉
・FIREやサイドFIREに興味がある人
・労働から解放されたい人
・今より自由に生きたい人

〈注意点〉
筆者の経験と考えを書いていきます。
共通点が多いほど参考になると思います。

〈筆者の特徴〉
30代前半、独身、超倹約家、元社畜、元薬剤師、ゆるいミニマリスト、賃貸暮らし(基本社宅で自己負担小)、負債ゼロ

本記事の構成は、下記の通りです。

幼稚園〜小学校時代の哲学

幼少期、
物心がついた頃から、
「死」が怖くて仕方ありませんでした。

そして、
哲学している時間も恐怖に震えていたため、
それは「哲学恐怖症」でもあったと思います。

時系列順に書き出していきます。

一番古い記憶も「死」の連想

私の一番古い記憶は、
恐らく1歳前後の頃、
寝かしつけで「となりのトトロ」を見せられていた時のものです。

その頃、
メイちゃんが追いかけていた「小トトロ」を本気で欲しがっていたことを鮮明に覚えています。

ぬいぐるみではなく、
「自我を持って動くあの可愛い生き物」が欲しくて仕方なく、
プレゼントにお願いしていました。

その数年後に、
「小トトロはこの世に実在しない」という事実を知り、
人生初の「絶望」を経験します。

「実在しない」ということは「無」であり、
それは「死」と同じ意味だと考えました。

「なんて残酷な嘘をつくんだろう」と、
夢を与えてくれた宮崎駿を逆恨みしました。

「小トトロ」を「死」と同じように失ったという、
強烈な体験だったからこそ、
記憶に刻まれているのだと思います。

その後も「死」が怖く、
「死」に関連する記憶に強烈に残っています。

「死」の連想で眠れない夜

「死」を連想させるものたちが、
とてつもなく苦手でした。

特にお盆、
戦争関連の映像やニュースが飛び交う季節が苦手でした。

そして、
その時期は毎年、

父親の実家に帰省していました。

お盆と正月、
年に2回必ず帰省するのが決まりでした。

その田舎の家に飾られている、
モノクロで無機質な「遺影たち」が一番の恐怖でした。

「この人たちは、この家で生きていた」

「この人たちは、全員死んだ」

「今日ここにいる全員も、同じようにいつか必ず死ぬ」

こんな簡単な連想ゲームなので、
3歳児でも容易に解くことができました。

最悪だったのは、
私たち家族が寝る部屋にその「遺影たち」が飾られていたことです。

消灯後、
仰向けになると月の光に照らされますます不気味になった「遺影たち」が、
否応なしに視界に入ってきます。

遺影は7つあり、
ほとんどが寿命を全うしたと思われる容姿をしていました。

しかし、
一人だけ40歳前後と見られる若い女の人がいました。

その若い女の人の運命を憂い、
「自分も若くして死ぬ可能性がある」ことに震え上がりました。

※のちに「剥奪説」という言葉を知り、その感情の正体を知ることとなります

いつか必ずやってくる「死」について考え、
全てが「無」に帰す恐怖に震え、
眠れない夜を過ごしました。

しばらく味わっていませんが、
心臓を素手で鷲掴みされているような、
心臓にぽっかり穴があくような、
強い恐怖の感覚は今でも忘れられません。

私は親族全員が無神論者だったので、
「死」についての教えがありませんでした。

いっそのこと、
嘘でも良いから答えを教えて欲しかったです。

昔も今も、
宗教にすがりたくなる気持ちはよく理解できます。

「生」と「死」の境界線が分からない

「死」について恐怖するが故に、
反対の「生」に活路を見出すことを試行していきます。

小学校の帰り道、
一人になる時間はずっと考えこんでいました。

「生」について思考しはじめると、
これはこれでまた難航します。

幼少期はリアルな夢を見ることが多かったので、
「今は夢なのか?」「現実なのか?」と頻繁に考えていました。

「夢から醒めた夢」や、
「今は夢なのか?現実なのか?と考える夢」も見ていたため、
どこからが夢でどこからが現実なのか、

考えれば考えるほどよく分からなくなります。

全ては幻想であり、
「この世に実在しているのは自分だけなのでは?」

「自分の視界に入らない世界は一度崩壊しているのでは?」
と思考したことは数知れません。

※のちに「水槽の中の脳」という概念を知ります

また、
世にも奇妙な物語の「懲役30日」というトラウマ作品を見てしまったり、
フィクション作品に数日間本気で悩まされることもありました。

「懲役30日」のように、
「薬を使って見せられている幻想」の可能性も否定できません。

そして、
行き着く先は「生」と「死」の境界線でした。

夢か現実か分からないのと同様に、
「生きているか死んでいるかも分からないのではないか?」

と考え始めます。

そんな時は、
心臓に手を当てて、
正常なリズムを(恐怖により若干早く)刻んでいる鼓動を確認し、

今ここに確実に実在する「自分の体の存在」を噛みしめていました。

その「鼓動の感覚」すらも幻想の可能性がありますが、
手のひらの「鼓動の感覚」は当時の私にとって救いでした。

メガネをかけながら、
「メガネどこやったっけ?」と心配になり、
「目の前に広がるクリアな視界」で察し、
その要らぬ心配が晴れた時と同じ感覚です。

死が怖すぎて、
「ちゃんと生きていること」を頻繁に確認する日々でした。

植物状態になった祖父

また、
そんな多感な幼少期の私に、

大きな試練が訪れました。

父方の祖父が不慮の事故により頭部を強打し、
植物状態(遷延性意識障害)になってしまったのです。

年に2回必ず帰省して顔を合わせていた、
「大好きなおじいちゃん」が「変わり果てた姿」となりました。

小学生にはとても辛い出来事でした。

病院へお見舞いへ行き、
おばあちゃんやお母さんが、
植物状態になったおじいちゃんに話しかけます。

しかし、
全く応答がありません。

どうやら、
意識もないようです。

※諸説あります

まさに、
「生」と「死」の境界線を見ているようでした。

問いかけに対する応答も一切なく、
管に繋がれて「なんとか生かされている」その姿を見て、
まるで「生きている意味がない」ように思え、
「生」と「死」について考えさせられました。

年に2回、
正月とお盆の帰省は、
「夜の遺影で底知れぬ恐怖を味わう」というスパイスがありつつ、
従兄弟たちとも会える「とても楽しいイベント」でした。

そんな「とても楽しいイベント」の中に必ず組み込まれる、
「2回のお見舞いの時間」がとても嫌いでした。

気分が落ち込み、
憂鬱な気分になるし、
正直「時間の無駄」としか思えませんでした。

人間性を疑われても仕方ありませんが、
死恐怖症の子供には本当に耐えがたい時間でした。

病院へお見舞いへ行き、
おばあちゃんやお母さんが、
植物状態になったおじいちゃんに話しかける「それ」にはまるで意味を見い出せません。

正直なところ、
遺影や遺骨に話しかけるそれと同じくらい、
ぬいぐるみに話しかけるそれと同じくらい、
無意味で虚しい行為だと思っていました。

例え意識があったとしても、
正確に伝わらず、

それに対するレスポンスがないのであれば、
まるで意味がなく、

虚しく切ないものです。

この「変わり果てた姿」は、
果たして「大好きなおじいちゃん」の同一なのか?と、
悶々と思考する日々でした。

※のちに、「同一性の問題」「テセウスの船」という概念を知ります

「一人で留守番をする」という選択肢は与えられていないため、
我慢してお見舞いに付いていきました。

「変わり果てた姿」に話しかけずにいると怒られるので、
意味を見いだせないまま我慢して話しかけ、
切ない思いをしました。

お見舞いの帰り道、
おばあちゃんにお寿司屋か天丼屋に連れて行ってもらえたので、
なんとか耐えていました。

しかし、
私は「病院の匂い」も大嫌いになっていたので、
衣服や鼻の中につく残り香と、
その残り香が連れてくる「1時間前までの嫌な記憶」のせいで、
御馳走の美味しさも半減していました。

この「生」と「死」の境界線を直視しなければならない辛い生活は、
5年ほど続きました。

自由意志はどこまであるか?

心臓の鼓動により「ちゃんと生きていること」を確認するのと同じように、
植物状態でない自分の体と頭を認識することで、
「ちゃんと生きていること」を確認することもありました。

しかし、
この世界への疑念はまだまだ晴れません。

なんとなく「自分は自由意志を持って生きている」と疑いなく信じていましたが、
精巧にできた仮想現実である可能性も残されており、
「全てはプログラミングされているのでは?」と考え始めました。

私は幼少期から祖父母や両親から、
「(良いことも悪いことも)おてんとうさまが見ているよ!」
「(悪いことをすると)おまわりさんが来るよ!」
と言われ続ける洗脳教育を受けていました。

悪いことをすると必ず「おてんとうさま」に見つかり、
それを聞きつけた「おまわりさん」に酷く叱られる。

そんな「完璧な世界」に生を受けたと信じていました。
※のちに、「エポケー」や「無知の知」という言葉を知ります

そんな「完璧な世界」だったら、
完璧にプログラミングされていても不思議な話ではありません。

おてんとうさま(つまり神様)が、
「完璧な世界」を作るために、

全ての人間の行動をコントロールできる能力を持っていてもおかしくありません。

そのほうが明らかに合理的でもあります。

しかし、
自由意志のない、

全てがプログラミングされている世界など、
まるで楽しくありません。

※のちに、「決定論」や「因果性」という言葉を知ります

私はその運命に、
必死に抗いました。

「自由意志」を証明するために、
「おてんとうさまのプログラミング」を打ち破るために、
意味もなく弟をぶって泣かせ、
「自分の力」で世界線を変えたりしました。

(弟よ、ごめん)

また、
駄菓子を買うとき、

わざわざ一度レジに向かった後に売り場に戻り、
「鈴カステラ」から「うまい棒」に変え、
おてんとうさまのへフェイントを仕掛けたりしました。

しかし、
その「突拍子もない無意味な行動」や「おてんとうさまへのフェイント」ですら、
おてんとうさまのプログラミングのうちなのでは??
と考え始めたら最後、

絶望しました。

そうなると、
降参するしかありませんでした。

全てがプログラミングされている「完璧な世界」を完全否定することができず、
小学生の私は無条件降伏をしました。

※『「完璧な世界」ではない』という事実も存在し、その矛盾にも悩みました

まとめ:幼少期の哲学は、とてつもない恐怖である

以上、
「死と哲学が恐怖でしかなかった頃の話」についてでした。

まとめです。

ーーーーーーーーーー

幼稚園〜小学校時代の哲学
 ①一番古い記憶も「死」の連想

  →「実在しない」=「無」=「死」
 ②「死」の連想で眠れない夜
  →モノクロで無機質な「遺影たち」が一番の恐怖
 ③「生」と「死」の境界線が分からない
  →生きているか死んでいるかも分からないのではないか?
 ④植物状態になった祖父
  →「生」と「死」の境界線を直視しなければならない辛い生活
 ⑤自由意志はどこまであるか?
  →全てがプログラミングされている完璧な世界に抗う

ーーーーーーーーーー

おてんとう様に降参してしばらくし、
中学校へ上がりました。

部活動で忙しくなったり、
思春期ならではの「より近い悩み」を抱えることが増え、
あまり哲学で悩むことがなくなりました。

成長により、
徐々にですがこの世界の現実も知っていきました。

引っ込み思案な子供だったため、
突拍子もない質問を投げかけて親や先生を困らせたようなエピソードはほとんどありませんが、
そのぶん常に自分の頭の中で哲学を抱え込んでいました。

「死」について考えることの多い哲学だったため、
「哲学恐怖症」でもあったと思います。

心臓を素手で鷲掴みされているような、
心臓にぽっかり穴があくような、
強い恐怖の感覚に頻繁に襲われていました。

眠れない日も多かったので、
成長への悪影響もあったと思います。

しかし、
今では「死恐怖症」も「哲学恐怖症」も克服できているため、
幼少期にこのような哲学の時間を経験していて良かったと考えています。

次の記事では、
本記事の内容に基づき、
「死への恐怖・不安を解消する方法」について書いていきます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました