【楷書が嫌いで行書が好き】社会不適合者は完璧主義者なのか【写実派が嫌いで印象派が好き】

⑥哲学者ごっこ

今回は、
「社会不適合者は完璧主義なのか」についてまとめていきます。

私は社会不適合者の気があり、
完璧主義者の気もあります。

昔から学校教育や社会に息苦しさを感じ、
レールに沿った生き方に限界を感じてしまいました。

そして、
30代前半で4,000万円の資産を作り、
サイドFIREのような生活へと逃げ出しました。

自由な時間を得て、
幼少期からの人生を振り返り、
社会不適合者と完璧主義者との深い関係に改めて気がつきました。

私の経験を基に、
社会不適合者と完璧主義者の関係を考えていきたいと思います。

※あくまで私個人の考えです

社会不適合者で悩んでいる人
完璧主義者で悩んでいる人
必見です。

〈この記事の対象者〉
・FIREやサイドFIREに興味がある人
・労働から解放されたい人
・今より自由に生きたい人

〈注意点〉
筆者の経験と考えを書いていきます。
共通点が多いほど参考になると思います。

〈筆者の特徴〉
30代前半、独身、超倹約家、元社畜、元薬剤師、ゆるいミニマリスト、賃貸暮らし(基本社宅で自己負担小)、負債ゼロ

本記事の目次は下記の通りです。

社会不適合者は完璧主義者なのか

社会不適合者は完璧主義者なのか、
完璧主義者は社会不適合者なのか。

完璧主義者であるから社会不適合者であるとも言え、
社会不適合者の1つの要素として完璧主義者であるとも言えると思います。

「鶏が先か卵が先か」と同じように循環的関係であり、
負のループを形成しているとも言えるかもしれません。

完璧主義者の気がある人も、
社会不適合者の気がある人も、
同じように悩んだことがあると思います。

私もそのうちの一人で、
昔から学校教育や社会に息苦しさを感じ、
レールに沿った生き方に限界を感じてしまいました。

サイドFIREのような生活へと逃げ出し、
自由な時間で人生を考える時間が取れたので、
じっくり思い出してみることにしました。

下記5つのエピソードを挙げ、
それぞれについて詳しく解説していきます。

①楷書が嫌いで行書が好き
②写実派が嫌いで印象派が好き
③カラオケの採点が嫌い
④ミスが許されない仕事が嫌い
⑤完璧主義者は「完璧」が嫌い

楷書が嫌いで行書が好き

思い返せば、
幼少期から完璧主義の気がありました。

まず最初に、
小学生の頃から習っていた書道の話です。

学内の書道コンクールでは毎回金賞(上位3名)を取り、
それなりに褒められてきた数少ない「得意なこと」でした。

しかし、
どうしても楷書が大嫌いでした。

最初は下手くそなので論外ですが、
ある程度うまく書けるようになると、
きっちりとした「正解に近い」楷書が書けるようになります。

この辺りから徐々に息苦しさを感じるようになり、
「見本通り(正解通り)に綺麗に書く」ということが大きなストレスになりました。

完璧を目指せば目指すほど、
少しのミスで全てが台無しになった気になり、
ストレスが溜まります。

普段はADHDの気はないのですが、
その窮屈感によりじっと座っているのもしんどいレベルで、

普段は全くしない貧乏ゆすりで注意されたことも多々ありました。

半紙左側の名前を書くスペースも、
自分の思い通りに書けなければ気が済みません。

『一年/山田/太郎』のように、
「学年」「姓」「名」と綺麗に分けて書きたいのに、
左払いの存在により『一年/山田太/郎』のようになった時はもう最悪です。

自分なりに頑張ってうまく妥協を続けましたが、
私にとっては耐えがたい苦行でした。

完璧主義の気があったせいで、
ここで一度書道が大嫌いになりました。

しかし
行書に出会って変わりました。

行書は楷書と違ってきっちりとしておらず、
少しのミスでも誤魔化しが効きます。

むしろ、
ミスをきっかけにしたリカバーや、

自分なりの表現を褒められることもあるのです。

そんな自由度の高さを魅せられると、
完全に惚れてしまいます。

きっちりしすぎて明確な答えがある楷書と、
自由度が高くて誤魔化しが効く行書

私にとっては完全なる別競技であり、
行書ばかり上達したのは言うまでもありません。

今でも皆に「おじいちゃんの字」と言われるほど、
体に染み付いています

写実派が嫌いで印象派が好き

また、
美術の授業においても同じようなことがありました。

書道の楷書と同様、
写実派が大嫌いでした。

「見本通り(正解通り)にきれいに描く」ことは息が苦しくなり、
小さなミスが気になってストレスが溜まります。

元々美術のセンスがなかったせいもあり、
美術が大嫌いになり、
絵は上達しませんでした。

しかし、
中学二年生の時に印象派という存在に出会います。

授業の版画作品で盛大にコケ、
校内の写生大会で成果を残さなければ内申点が悲惨なことになる状況だったため、
苦肉の策として「付け焼き刃の印象派」を発動させました。

写生大会当日、
それが功を奏しました。

不思議なことに、
「見本通り(写真のように)にきれいに描く」から解放され、
「誤魔化せる」というだけでストレスなく描くことが出来ます。

付け焼き刃の知識でしたが、
黒は使わずに淡い色を重ね続けるその作業には大いにミスが許され、
そのミスの誤魔化しすら味わいになるのです。

楽しく描ければこっちのもので、
誤魔化しのエセ印象派作品が完成しました。

流石に金銀銅は無理でしたが、
我ながらそれなりの出来だったため佳作(確か上位15〜20%)に選ばれることが出来ました。

美術における初めての成功体験です。
※翌年の写生大会も佳作

大嫌いな写実派から離れられたことでストレスからも解放され、
美術(嫌いな授業)を楽しめたことが一番の収穫だったと思っています。

カラオケの採点が嫌い

また、
カラオケの採点が大嫌いです。

※上手い下手の議論は一旦置いておいて下さい

一時期採点機能を付け、
友達と競ったこともありますが、
ただのストレスでしかありませんでした。

あの音程バーを見るだけでも息苦しくなり、
気が散ります。

とにかくミスに引きずられ、
イライラして楽しむことが出来ません。

しかも、
点数が高いからと言って、
必ずしも上手いわけではありません。

カラオケの「高性能」「最新AI採点」ほど当てにならないものはないと思います。

そもそも、
がんじがらめのコピーには何の魅力も感じません。

一定数「採点のためのカラオケ」になっている人たちが居ますが、
何が楽しいのか全く理解できません。

それだったら、
自由度の高いカバーの方がよっぽどマシです。

ここのところは専ら一人カラオケに行くようになり、
社会不適合者を極めてしまっています。

ミスが許されない仕事が嫌い

社会人になり、
私は薬剤師として薬局の現場で働き始めました。

患者様の命に直結する仕事のため、
もちろん「ミスが許されない仕事」です。

私は完璧主義の気があるので、
長年積み重ねてきた細かい仕事の鍛錬が功を奏し、
この「ミスが許されない仕事」は多分得意でした。

しかし、
かなり嫌いでした。

楷書や写実派やカラオケの採点と同じく、
やはりその窮屈さから大きなストレスが溜まるのです。

その窮屈さから抜け出す突破口を見つけるべく、
調剤過誤(ミス)に関して徹底的に勉強することにしました。

マルチタスクではなくシングルタスクを極めて淡々と作業をこなすことが前提で、
スイスチーズモデルに基づいて「完全実施できる”穴の小さな防護壁”」を作り、
コブラ効果を回避するために余計な独自ルールを加えない。

突破口を見つけるどころか、
勉強して理論的に考えれば考えるほど、

窮屈で息の詰まる「マニュアル業務」が正当化され、
自由度のない創意工夫の出来ない仕事に成り下がりました。

まるで仕事ではなく作業であり、
まさにロボットです。

特にチェーンストアであれば、
現場はキマリ(本部からの指示)を徹底することに努めなければなりません。

これは間違いなく患者様の安全のための最善策であり、
そこには反論の余地すらありませんでした。

自分のちっぽけな欲求を満たすだけの身勝手な造反は、
尊い命を奪うことに繋がるのです。

そのこともあり、
自由度が高く創意工夫の余地がある本部管理職への出世を決意し、
この嫌いな仕事を頑張れたという背景もあります。

「ミスが許されない仕事」には自由が許されず、
創意工夫は否定されるべき概念のため、
完璧主義の気のある私にとっては非常に窮屈で息が詰まるものでした。

完璧主義者は「完璧」が嫌い

これまでのエピソードに共通することとして、
完璧主義者は最終的に、
「完璧」に近づけることに意味を見出せなくなるのだと考えました。

つまり、
「完璧」が嫌いということです。

本能が「完璧」を求めて、
それに近づける作業を行います。

「完璧」に近づくにつれて雲行きが怪しくなり、
それが何になるのかと考えると虚しくなります。

作品完成後(仕事完遂後)、
一瞬やってくる達成感はまさに「一瞬」で過ぎ去り、
そこに残るのは「完璧に近いニセモノ」だけです。

「完璧に近いニセモノ」は、
まさに「ホンモノのコピー」です。

私は楷書が大嫌いだった時、
「フォントで良いじゃん」と思うことが
多々ありました。

しかも、
この世の中には「教科書体」と呼ばれる「完璧」が存在することを知り、
楷書を書く意味がますます見出せなくなります。

写実派が大嫌いだった時は、
「写真で良いじゃん」と思うことが
多々ありました。

写実派は「写真がなかった時代」にのみ存在価値があり、
現代社会においては全く存在価値が無いと思えてしまいます。

カラオケの満点にはもちろん存在価値を感じないし、
「ミスが許されない仕事」は「AIに取って代わられてしまえば良い」とすら思いました。

そんな具合で、
「完璧」を求めるが故に、
「完璧」が嫌いなのです。

そして、
その「完璧」は
学校教育や日本社会においてかなり重要視されています。

画一的にマニュアル的な教育を受け、
ミスが許されないようなマニュアル業務が溢れかえっています。

完璧主義者は学校教育でも苦しみ、
社会人になってからも苦しむ運命です。

よって、
社会不適合者になる
傾向が強いのだと思っています

まとめ:完璧主義者であるから社会不適合者である

以上、
社会不適合者は完璧主義なのかについてでした。

まとめです。

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社会不適合者は完璧主義者なのか
 ①楷書が嫌いで行書が好き

 →自由度が高くて誤魔化しが効く行書が好き
 ②写実派が嫌いで印象派が好き

 →ミスが許され、そのミスの誤魔化しすら味わいになる印象派が好き
 ③カラオケの採点が嫌い
 →がんじがらめのコピーよりも自由度の高いカバーの方がマシ
 ④ミスが許されない仕事が嫌い

 →自由度のない創意工夫の出来ないマニュアル業務に成り下がる
 ⑤完璧主義者は「完璧」が嫌い

 →「完璧」に近づけることに意味を見出せなくなる

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かなり個人的なエピソードばかりになってしまいましたが、
リアルな経験を書き殴りました。

私の経験上、
完璧主義者であるから社会不適合者であり、
社会不適合者の1つの要素として完璧主義者であると考えています。

そして、
「鶏が先か卵が先か」と同じように循環的関係でもあり、
しばしば負のループを形成することがあると思います。

完璧主義者の気がある人も、
社会不適合者の気がある人も、
同じように悩んだことがあると思うので、

少しでも共感していただけると嬉しいです。

次回、
この記事の派生として「社会不適合者は誤魔化しが得意」ついてまとめていくので、
ぜひ読んでいってください。

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