今回は、
「サイドFIREの葛藤:社畜でラットレースから抜け出さない方がラク説」についてまとめていきます。
私は30代前半で4,000万円の資産を作り、
サイドFIREのような生活をしています。
サイドFIRE生活の中では、
様々な悩みや葛藤があります。
悩みや葛藤は割とネガティブなものですが、
私なりにそれらをポジティブに転換しています。
・サラリーマンのメリットを知りたい人
・「自由な時間」による副作用に悩んでいる人
・これからサイドFIREやFIREを目指す人
必見です。
サイドFIREへ向けた予習として参考にしたり、
共感していただけると嬉しいです。
〈この記事の対象者〉
・FIREやサイドFIREに興味がある人
・労働から解放されたい人
・今より自由に生きたい人
〈注意点〉
筆者の経験と考えを書いていきます。
共通点が多いほど参考になると思います。
〈筆者の特徴〉
30代前半、独身、超倹約家、元社畜、元薬剤師、ゆるいミニマリスト、賃貸暮らし(基本社宅で自己負担小)、負債ゼロ
本記事の目次は下記の通りです。
「自由な時間」による副作用:哲学の沼にハマるデメリット
前回の記事で「哲学の沼にハマるデメリット」についてまとめました。
※以下、要点を抜粋して記載します
自由な時間が増えると哲学の沼にハマる理由
→哲学の沼にはメリットもデメリットもあり、取り扱いには注意が必要
哲学の沼にハマるデメリット(ネガティブで悪い哲学)
①ネガティブループ:マイナス思考の沼
→分かっていながら、なかなか哲学や思考が辞められない
②時間の浪費:形而上学的なもの
→簡単に言えば「無駄な考え事」であり「時間の浪費」
③ニヒリズム:水槽の中の脳
→「時間の浪費」に加えて「活力」も奪うのが厄介
「自由な時間」を獲得することで哲学の沼にハマり、
ネガティブで悪い哲学に苛まれることがあるという話でした。
※もちろん、ポジティブで良い哲学もあります
ネガティブループも、
形而上学的な哲学も、
消極的・受動的ニヒリズムも、
哲学や思考により貴重な時間を浪費しているに過ぎません。
人生100年時代は、
無為に過ごすには長すぎますが、
有為に過ごすには短すぎるのです。
時間は有限です。
私も「自由な時間」を手にして以降、
ますます圧倒的時間不足を感じています。
哲学や思考も大事ですが、
そればかりしていてはいけません。
行動しなければ、
まるで意味がありません。
行動力を奪うような過剰な哲学や思考は、
「自由な時間」が生む副作用なのかもしれません。
そうなると、
たまに「自由な時間」が悪者に見えてくることがあります。
「社畜でラットレースから抜け出さない方がラクなのでは?」と、
「仕事に追われ続ける人生」の方が充実するような気もしてきます。
哲学のネガティブな面に直面すると、
そんな思考に陥ることがあります。
今回は、
「社畜でラットレースから抜け出さない方がラク説」について真剣に考えていきます。
社畜でラットレースから抜け出さない方がラク説
「自由な時間」による副作用として「哲学の沼にハマるデメリット」を挙げた通り、
ニートのような生活で手に入る「自由な時間」が人生に幸福をもたらすとは限りません。
これは決して現ニートからの皮肉でも何でもなく、
私自身がこれまでに「社畜」と「ニート」を繰り返してきた経験によるものです。
5年間の社畜生活
↓
メンタル病み、約1年8ヶ月ニート
↓
約2年半、再度社畜
↓
サイドFIRE生活(ほぼニート)4ヶ月目
経験上、
「仕事を頑張っている社畜が偉い」とか、
「自由な時間を得るために頑張ってきたニートが偉い」とか、
ここに優劣はありません。
個人的には、
『いつでも「社畜」と「ニート」の選択肢があること』こそが正義だと考えています。
経済的自由、
「仕事をしない自由」を手にしている状態です。
そのため、
自由に生きることができる「サイドFIRE」という生き方を推し、
実際に私自身も選択しています。
大局的に見れば、
「社畜」も「ニート」も偉大であり、
人生においてどちらも経験すべき過程だと思います。
しかし、
局所的に考える場合、
どちらにも良し悪しがあり、
この二者択一は困難を極めます。
そんな中、
「社畜でラットレースから抜け出さない方がラク説」というのは昔から感じており、
特に社畜を肯定したい時によく考えていました。
そして、
「自由な時間」の副作用により「ニート」に飽きた頃にも、
その考えが再燃するのです。
「社畜でラットレースから抜け出さない方がラク説」の根拠を3つ挙げ、
それぞれについて詳しく解説していきます。
目の前の仕事に没頭できる
まずは、
「没頭すべき目の前の仕事がある」というのは素晴らしいことです。
職務があり、
会社に属し、
さらに社会の一員であるという充実感まであります。
ただし、
「義務感」というものが必ずくっ付いてくることは、
どうにも憎たらしいポイントです。
ふとした瞬間に虚しくなり、
自分のしていることが「ラットレース」のように見えてくることもあります。
しかし、
漠然と「自由な時間」が与えられることに比べ、
行動が明確になることは疑いようがありません。
目の前の仕事に没頭できることの素晴らしさは、
ニート生活を続けていくうちに痛感するものです。
自由の刑に処せられないためには、
「あえて選択肢を減らす」ということも大切なのです。
私が2度目の社畜生活に入った時も、
この感情が強かったのを覚えています。
余計なことを考える暇がない
そして、
目の前の仕事に没頭できることにより、
「余計なことを考える暇がない」というのも良いポイントです。
管理職に昇進し、
膨大な量の仕事に囲まれていれば尚更です。
「自由な時間」が生む副作用、
行動力を奪うような過剰な哲学や思考とは無縁の生活を送ることとなります。
義務感が強くとも、
たとえ強制感が強くとも、
過酷な環境に身を置くことにより、
少なからず「行動による成果・成長」が得られます。
私の経験上、
「自由な時間」は行動よりも思考を充実させる傾向にあるため、
強制的にでも仕事に追われた方が「行動による成果・成長」が得られることは間違いありません。
まるでライザップの戦略のようですが、
義務感や強制感がなければ、
どうしても人間はだらけてしまうものです。
行動力を高める上では、
「余計なことを考える暇がない」くらいがちょうど良いのかもしれません。
休暇のありがたみがある
過去の記事で「自由な時間が増えると哲学の沼にハマる理由」として述べた通り、
本能が「休暇」を求め、
本能が「思考すること」を求めていることは確かです。
※下記記事で詳しく解説しています
しかし、
ニート生活が長くなるにつれて、
「休暇」や「思考すること」に対するありがたみが薄れてきます。
それどころか、
ぬるい惰性となり、
生活にメリハリがなくなり、
余計にネガティブで悪い哲学にハマる傾向にあると思います。
一方、
社畜には「休暇」のありがたみがあります。
それも、
社畜を極めれば極めるほど、
渇望するような強いものになります。
私も社畜時代に932連勤をしていたため、
その時は渇望していました。
いや、
最終的にはその感情すら失われました。
※やりすぎてメンタルが死にました
「休暇」および「思考すること」は、
渇望する時ほど有意義なものになります。
普段溜まっている分、
生産的な思考ができ、
よりポジティブで良い哲学ができる傾向にあると思います。
結局のところ、
生活にはメリハリが必要なのです。
たとえラットレースと言われようが、
メリハリのある生活は素晴らしい側面を持っています。
まとめ:ラットレースにもメリットはある
以上、
「サイドFIREの葛藤:社畜でラットレースから抜け出さない方がラク説」についてでした。
まとめです。
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「自由な時間」による副作用:哲学の沼にハマるデメリット
→行動力を奪うような過剰な哲学や思考は、
「自由な時間」が生む副作用なのかもしれない
社畜でラットレースから抜け出さない方がラク説
①目の前の仕事に没頭できる
→漠然と「自由な時間」が与えられることに比べ、行動が明確になる
②余計なことを考える暇がない
→強制的にでも仕事に追われた方が「行動による成果・成長」が得られる
③休暇のありがたみがある
→「休暇」および「思考すること」は、渇望する時ほど有意義なものになる
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ラットレースにもメリットはあります。
繰り返しになりますが、
これは決して現ニートからの皮肉ではありません。
私自身がこれまでに「社畜」と「ニート」を繰り返してきた経験によるものです。
大局的に見れば、
「社畜」も「ニート」も偉大であり、
人生においてどちらも経験すべき過程だと思います。
そのため、
社畜になって出世することもゴリ推ししています。
※下記記事でまとめています
そして、
もちろん若いうちに自由な時間を獲得することも重要です。
個人的には、
『いつでも「社畜」と「ニート」の選択肢があること』こそが正義だと考え、
それを実現するのがサイドFIREだと考えています。
30歳で3,000万円の資産を作ってしまえば、
その後の長い人生で「働く」も「休む」も自由に選択できます。
※超おすすめです。
今後は個人事業という選択肢も加え、
ライフスタイルに応じて自由に選択していこうと考えています。
その他、
「サイドFIREの葛藤」シリーズの記事を沢山書いています。
※是非読んでみてください
↓
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